伊藤 洋一さんコラム - 第18回
好ましくない自己目的化―「100年時代の生き方」
「100年時代」という単語を見聞きする度に思うのは、「それを自己目的にするのは良くないのではないか」ということだ。結局人間は、存在価値をある程度確かめながら生きるのが心地よいことであって、「100歳」自体が目的になってしまうのは社会にとっても、本人にとってもあまり良い結果は生まないと思う。
別に「夭折」が理想だとも思わない。しかし人間の中にはそういう価値観も存在するし、それはそれで理解できる。古希になってもそう思う。しかし私自身の今の考え方は「自然に、生まれてきたことを幸運だと考えて、無理のない範囲で生を全うする」というものだ。その間は、何らかの形で社会に貢献できていたら良い。
では「存在価値」とは何か。これは難しい問題だ。家族や社会の中での役割は重要だし、趣味を追求するのもその中に入るだろう。様々な活動の中で「家族や社会にとって自分の存在の価値」を示し、そして世代の違う人との関係を保ちながら過ごすことが一番の近道だと思う。
別に懐かしんでいるわけではないが、私が小学生・中学生の時は祖父・祖母が家に居て、それはそれは大きな存在だった。今は家族が核化している。単位が非常に小さい。ご老人も一人とか老夫婦のみで生活しているケースも多い。私は豊かな経験を持つ高齢者が、社会での居場所をうまく見付けられず、形として閉じ込められるような生活をしなければならないとしたら、それはご本人達や社会にとって良くないと思っている。
急速に進む少子高齢化の波の中で、世界各国も対処に戸惑っている。人間社会はずっと多数の若年層、少数の高齢者というピラミッド型の構造をしながら展開してきたから、日本を含め世界各国が、過去に例のない社会構造にどう対処するか。試行錯誤せざるを得ないのは自然なことだし、それはまたチャレンジでもある。
例えば「定年制」の延長の動き。「まだ働けというのか」という反論もある。しかし私のように比較的自由に仕事を続けている人間からすると、また「8掛け説」からすると、当然の動きのように思える。今の企業社会では定年延長を試みる傾向が見えるし、政府もそれを後押ししている。それはある意味当然だと言える。
前回「コストにならない」ということを書いた。「コストにならない」一番良い方法は、自然な形で対価を頂いても良いような役割を果たすことだ。必ずしも対価が保証されなくても良い。周りの人達が「あの方にはお世話になっている」と思って頂ける状況を作れれば良いと思う。私の祖父も祖母も存命中はずっと「大事な人」だった。「大事」という意味は、「居て欲しい人」という意味だ。
今はそういう仕組みを社会的に作り上げる努力が、行政的にも社会的にも足りないと思う。一定の年齢を過ぎると「役割を終えた人」のように扱う傾向がある。大体が「定年」という制度も企業サイドの考え方であって、それは組織の仕組みを維持するために必要な面がある。個人差が大きいそれぞれの人の能力に、年齢だけで「終わりの刻印」を押している。もったいない。
ロボットやAIの登場で「人余り」が予想されたが、今は世界的に「人手不足」だ。生産性を著しく高めたアメリカでも、失業率は3.5%と歴史的な低さにある。それは人の社会は様々な形で生物としての人間の参加を必要としていることを示している。人間は動物であり社会的存在だ。人との接触の中にこそ「社会」があり、であるが故にITの進展の中でも様々な形で人間の関与がなければ社会は存在しない。
日本の社会システムは、就業もそうだが終業も硬直的に過ぎる。私の一つ年上の従兄弟は大手国内自動車メーカーを辞めた後に、大手海外自動車メーカーに再就職し、生産管理の専門家として70歳まで働いた。特殊技術を買われての長いデトロイト暮らしだった。今は日本に帰ってきて、好きなアマチュア無線を再び始めた。なかなか良い人生だと思う。
企業絡みの仕事をすることだけが人生ではない。様々な社会貢献があり、それは緑のオジさん、オバさんでも良いし、様々な形で自分が積み上げた知識を様々な方に伝え、そして流布する仕事でも良い。企業もそうだが行政もそうした社会参加の形を増やしていく必要がある。
最後に、今回のテーマである「100年時代の生き方」の執筆を終えるに当たって、「100年時代」の到来が予見される中で「準備の必要性」を強調しておきたい。「100歳まで生きる、生きるかも知れない」ということは、「時間がたっぷりある」ということを意味する。どう有意義に過ごすかは非常に重要な問題だ。しかも人生のエンドに来る長い時間だ。新たな社会参加の形を自分で作り上げて、過去は一回捨てた方が良いと思う。人間は「現状」で評価されるのであって、他の人々にとっての「その人の過去」はあまり意味がない。
2,000万円問題があった。役所が「老後にこのくらい必要」と試算したらしい。あまり意味のない数字だし、年金を司る役所が数字までも出すのはどうかと思う。しかし私の周りを見て言えることは、「より自由に時間を過ごすためには、資金的自由度は必要」というものだ。時間と軍資金があれば、多分比較的自由なエンドを全うできる。そのための準備も必要だ。
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PROFILE
伊藤 洋一(イトウ ヨウイチ)
経済評論家
1950年長野県生まれ。金融市場からマクロ経済、特にデジタル経済を専門とする。著書に『ほんとうはすごい!日本の産業力』(PHP研究所)、『日本力』(講談社)、『ITとカースト インド・成長の秘密と苦悩』(日本経済新聞出版社)、『カウンターから日本が見える―板前文化論の冒険―』(新潮社)など。「金融そもそも講座」などに書評、エッセイ、評論などを定期寄稿。
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