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スピリット

笹原 友希さんコラム - 第3回

這いつくばって掴んだオリンピック

世間の厳しさを知った1年

2010年、バンクーバーオリンピックを逃した後、札幌でノルマ制の仕事を始めました。自分の力で遠征費を稼ぐためです。

しかし、知らない土地で一からの営業は全く成果が出ません。前職では、環境や周りの皆さんのおかげで仕事が出来ていた事を痛感しました。

そして、1件も契約が取れないまま、食いつなぐためにバイトを掛け持ちする羽目になりました。

それでも前年度の税金などを支払うとお金はもはや底を突き、まともに食事もできないのでスケルトンを始めたときとほぼ変わらない体重まで身体はやせ細りました。

ある雨の降りしきる日の午後、掛け持ちアルバイトのBSアンテナ設置のため、ぬかるんだ庭から3階の屋根にハシゴをかけ、片手にアンテナを持って登っている最中に手を滑らせ落下しました。とっさにアンテナを捨てて途中でハシゴを掴み直し無事でしたが、「ここで死んだら、成仏できないなぁ。僕はなんのために札幌に居続けているんだろう。」と悲しくなりました。

その後僕は、故郷に帰ろう、と決めました。

帰路に就く道中で、どんな顔して帰ればいいんだろうと思っていましたが、家族はいつも通り、迎えてくれました。田舎の景色もいつもと変わりません。

そんな生まれた場所の空気を吸って、僕はもう一度ゼロからスタートしようと心に誓いました。そして、「スケルトンのコースがある長野に行こう。」と決意しました。

練習道具と布団だけを積んで向かった長野

仕事や家のあてもなく、とにかく長野へ向かいます。

そして知り合った安曇野にある不動産会社の社長さんが親身になってくれて、家だけでなく地元の農家に仕事先も探してくれました。

3月の種まきに始まり、田植え、収穫、9月に籾すりを行います。そして10月~2月までは海外を転戦という流れで2年間を過ごします。農業とウインタースポーツはちょうどシーズンが被らないのですね。

僕の担当は主に夏イチゴの収穫と田んぼの草刈りでした。

4時に起きイチゴの収穫をし、日が暮れるまでは田んぼの草刈りをします。用水路で泥だらけになった長靴を洗い、夕方からトレーニングジムのインストラクターをして、それからようやく自分のトレーニングが行えます。

でも農作業体幹トレーニングと銘打って草刈りをし、米俵を担いでスクワットを行い、「今に見てろよ!待ってろよオリンピック!!」とこれまで最高にハングリーな日々を過ごすことが出来ました。

誰かが観ていてくれた

いよいよオリンピックシーズンがやってきました。そして祖父のお墓参りをしている時に電話が鳴ります。

「今年から、クラブチームでやらないか?」

この頃、日本には1社だけIT企業がスポンサーのスケルトンクラブチームがありました。

お世話になっている農家の方に相談したら、「笹ちゃん!ステップアップだよ!」と背中を押してくれ、僕はクラブチームに入ろうと思いました。

後日談ですが、そのクラブチームのメンタルトレーニングの先生から「朝早くから日が暮れるまで農業をやって、それでも結果を出している選手がいるという噂を聞いていたんだよ。私もその話をして、うちの選手にはっぱをかけていたんだよ。」と明かしてくれました。

当初その先生は、「僕には期待していないのでは?」と思っていたのですが、実はその先生がクラブチームのオーナーや関係者に笹原が必要だと説得をしてくれていたのです。

「地道に歩んでいたら、必ず誰かが観てくれてるんだ。」僕は実体験としてそれを学びました。

負けたら帰国。ガチンコセレクションレース

シーズン開幕直前、ワールドカップメンバーを決めるセレクションレースが行われました。

開催地はバルト三国の一つであるラトビアです。エレベーターで4階に上がり扉が開くとすぐにスタートエリアという、世界でも有数の危険なコースです。

僕は練習であまりにも攻めすぎて、大事なセレクションレース前に転倒してしまいます。

あまりに派手な転倒でみんなは僕が死んだと思ったらしく、出不精のトラックチーフまでがコントロールタワーから「Dead or Alive!?」と叫びながら走ってやってきてくれました。

幸いにも僕は生きてはいました。でも体の左半分はほとんど動きません。

スーパーでロックアイスを買い占め、ホテルの業務用冷蔵庫に保管してもらいアイシング。

10分も経たないうちに氷が一袋溶けてしまうほど、体は熱くなっていました。

朝は仰向けで起き上がることができず、利き腕と反対の手でご飯を食べるほどです。

しかし、恐怖心が芽生えるのが怖かったので、次の日にはさらに顎を擦りながら滑走しました。

そしてセレクションレース前日……。

こともあろうことか2度目の転倒。

「スケルトンのためだけにこの4年間を捧げてきたのに、この一番大事なタイミングに、神様はなぜこんな仕打ちをするんでしょうか?あんまりです!」あまりのショックに打ち拉がれましたが、翌朝、不思議なことに仰向けで普通にベットから起き上がることができたのです。

自分なりによくよく考えましたが、最初は右カーブで転倒、2回目は左カーブで転倒。おそらく、左右一度ずつの転倒によりずれていた骨が戻ったんじゃないかと思います。

そして調子は最高潮。自己ベストでセレクションを1位通過しました。

神様は、ちゃんと見てくれていたんですね。

万全の状態じゃないほうが良い結果を出せることがある。これを学んだことが、最後の最後でオリンピック枠を獲得する礎になり、苦手だった全日本選手権で好成績を収めるきっかけになりました。

しぶとさだけならだれにも負けないぞ

オリンピックシーズンも終盤、母親がある夢を見ます。

約束の地、オリンピック。僕は母親より先に目的地に着いていて、笑顔で手を振って待っていたという夢です。僕はそれを聞いたときに、正夢になるなと思いました。

しかし。年末の全日本選手権で初の表彰台に上がりますが、オリンピック枠はこの時点で1枠。背水の陣でシーズン後半戦に臨みます。

そして、運命のレースとなるスケルトン発祥の地スイス・サンモリッツ。

僕はイタリアの選手と競っていましたが、ここで結果を出せなければイタリアが2枠を獲得し、僕のソチオリンピック出場の可能性はなくなるという崖っぷちの状況。

しかしながら、この大事な試合の公式練習まで僕は絶不調に陥ってました。そんな大会当日、スイスの空は突き抜けるほど青く、気持ちは不思議と前を向いていました。

「どうせ最後になるのなら、自分史上で最高の滑走をして終わろう。」と思っていたからです。不具合があった方がいい時もあるし、なんとかなるさと。

レースは会心の滑りで予選を通過し、イタリアの選手は最下位に沈みました。どうやら神様は、覚悟を決めた人間に微笑むようです。

朗報

スイスからドイツに移動し、その夜に監督からオリンピックが決まったことを告げられます。

ソチオリンピックまですでに1カ月を切ったタイミングでした。

翌日メディアにリリースされるということでしたが、真っ先に社長に連絡しました。

「社長、おかげさまでオリンピックに出場できます。」

石の上にも3年じゃなく、僕の場合は氷の上に10年。

10年かけて、オリンピック出場というスケルトンを始めた頃の夢が叶いました。

この瞬間の感情は、あえて例えるなら泉からとめどなく水が溢れるようでした。

ドイツではワールドカップ自己最高の9位に入り、メダルも現実味を帯びたところでオリンピックに乗り込みました。

全ての方に感謝したオリンピック

念願のオリンピックは22位。残念ながら望んでいた結果とは程遠い順位に終わりました。

オリンピックで金メダルをと思いつつも、どこかで出場したことに満足してしまったんだと思います。

まだまだオリンピックで結果を出せる人間ではありませんでした。

結果は残念でしたが、最終滑走直後、4年間のプレッシャーから解放された瞬間、今までの自分では信じられないほど周りの方への感謝の気持ちが溢れていました。

お世話になった人はもちろん、出会った全ての人たちに、「おかげさまで強くなれました。」と心から感謝していました。

反骨精神の固まりでやってきた僕は、この感動的な体験から、これまでの生き方を少しずつ変えていくことになります。

「感謝」

生きていくうえで本当に大事なことを、オリンピックは教えてくれました。

PROFILE

 笹原 友希

笹原 友希(ササハラ ユウキ)

スケルトン競技元ソチオリンピック日本代表

1984年秋田県生まれ。仙台大学時代からスケルトンを始める。卒業後、株式会社アドバンスクリエイトに就職(2010年まで在籍)。北海道・長野・秋田で社会人として競技を続けながら五輪を目指し、2014年に念願のソチ五輪に出場。2017年に現役を引退し、現在は茅ケ崎のスポーツクラブの広報業務に従事。

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