笹原 友希さんコラム - 第2回
約束
振り返ると、オリンピック出場は、あの瞬間に決まっていた……。
自分との約束
大学卒業後、僕は大阪に本社を構えるアドバンスクリエイト社に就職しました。そう、今まさにこのコラムを連載している保険市場を運営する会社です。
就職活動をするにあたって、1つ自分との約束事を決めていました。
『インカレで優勝したら、卒業後も社会人として競技を続けながらオリンピックを目指し、優勝を逃した場合はスケルトンを辞める』ということです。
当時のインカレ出場選手の中で、僕を含む男子ジュニア日本代表4名は、特に実力が拮抗しており、目標を達成できる確証はなかったのですが、それは現実のものになりました。
さて、続けることを決めたと言っても、採用してくれる企業はなかなか見つかりません。
面接に行っては「スケルトンを続けながら働きたいんです!」「うちでは雇えないなぁ」の繰り返しでした。
そんな中、アドバンスクリエイトの人事担当の方が「夢を持ってる若者、うちの社長めっちゃ好きやで!」と仰ってくれたのです。
最終面接で社長が入ってきて椅子に座られるなり「君、夢はなんや?」と声をかけられた時は、「ほんまやー!」と秋田出身の僕が心の中で関西弁で叫んでいました(笑)。
話を戻して……、なぜ優勝できたのか?なにが優勝を引き寄せたのか?
その答えは、自分と約束をしたからだと僕は思います。
皆さんも経験がありませんか?
誰と約束したわけでもなく始めたことが習慣になり、自分を成長させてくれたこと。本を読む習慣、ランニングやダイエット、自炊、資格取得の勉強、早起き。どんなに小さなことでも、3日坊主で終わらなかったものは自分を変えてくれているはずです。
「約束」とは、言い換えると「覚悟」です。「覚悟」が自分の甘えや弱さを払しょくし、思考と日々のリズムを作り、ゴールを逆算して自分との「約束」を果たしてくれました。
動き出した車輪と同じように、僕は加速していきます。
社会人になってアメリカズカップ第2戦で優勝。計7戦に出場し、合計獲得ポイント1位でアメリカズカップシーズンチャンピオンになりました。
メダリストが同じ試合に出場しても「メダリストがなんぼのもんじゃい、下剋上じゃ」と思っていましたし、駆け出しで他の選手の実力を把握していなかったことも、小さくならずに思いっきり戦えた要因でした。
雲の上の存在だと思っていた日本トップの選手達にもいい滑りをすれば勝てるようになり、このままいけばバンクーバーオリンピックに「行ける」と思っていました。
でもそれは、「行く」ではなく「行ける」だったのです。
約束のない戦い
若手の頃に僕が持っていた「勢い」は武器です。しかしながら勢いは生き物であり、何かのきっかけで止まってしまうことがあります。
若手だったころ、僕は海外では強かったのですが、全日本選手権はまるでダメでした。理由として、雑音に弱かったということが挙げられます。
連戦が続く国際大会ではどこかしらで自分らしさを発揮することができましたし、言葉の通じない海外では競技に集中できました。
ところが、注目が集まる全日本選手権では、競技以外の部分でエネルギーを消耗し実力を発揮できないということが10年続きました。
スケルトンでは、アメリカズカップ、ヨーロッパカップ、インターコンチネンタルカップ、ワールドカップの4つのカテゴリーがあります。右に行くほど大きな大会です。
獲得した国際ポイントと全日本ポイントの足し算で、国際大会の出場カテゴリーが決まり、国内ランキングが決まります。
全日本で勝てていたら、状況は変わっていたかもしれません。
オリンピック出場枠は「2枠」のみ。失速し、結果僕は落選しました。
まず、オリンピックに行くとはどういうことなのか。どのくらいの準備が必要なのか。途方もない準備と努力が必要だとわかっても、自分はやり遂げる「覚悟」があるのか。出れなかったら何を失うのか。
置かれた環境、立ちはだかる壁、想定外の問題。すべてを受け入れ言い訳を排除し進み続ける「覚悟」があるのか。
今思えば覚悟もロジックも、僕には足りませんでした。もっとインカレの時のように考えていれば、結果は違っていたかもしれません。
勝利の女神に後ろ髪はないと言いますが、戦う以上サムライの様に生きるか死ぬかの覚悟でやっていかないと、アンテナがそのタイミングをキャッチできなくて、気づいたときには遅いのかもしれません。そもそも、準備を万端にしておかないと、勝利の女神は来てくれさえしないのでしょう。
死んでも守りたい約束
バンクーバーオリンピック後、スケルトンを辞めて会社に残るという選択肢を会社が提示をしてくれました。とてもありがたいお話です。
大好きなスケルトンをきっぱり諦めてお世話になった会社で恩返しをしていくという道が、人としては正しい道だったであろうと、今でも思います。
しかし、この時僕は退社してスケルトンを続ける道を選びました。
「オリンピックで金メダルを取ります!」と啖呵を切ったにも関わらずオリンピックにすら出れなかった。そんな自分が不甲斐なくて情けなくてたまりませんでした。ただ、どうしてもオリンピックで金メダルを取るという夢を諦められなかったのです。
辞めることを決め、引継ぎが済み、社長室にご挨拶へ伺った際、「なんもしてやれなくて、すまんかったな」と一言社長が仰られました。
冬は競技に専念させてくれて、海外遠征にかかる費用も出してくれて、栄養士の方がいる社宅も探してくれて、なんにもしてくれなかったなんて、そんなことはありません。
「君、夢はなんや」
「オリンピックで金メダルを取ることです」
「ええ夢やな」
なんもしてやれなかったなんて、恩人である社長に思わせ続けてはいけない。
僕を採用したことを、間違っていたと思わせ続けてはならない。
社長のおかげで、必ずオリンピックに出場するという覚悟が決まりました。できなければ、二度と感謝を伝えることはできない。恩返しできないままでいるのは、僕が一番望んでいない事。
一方、オリンピックを逃したことで、「君がスケルトンをやるより僕がやったほうがはるかに結果出せるよ」と笑われながら言われ、「君には〇〇が足りない!」と欲しくもない商品を売りつけられそうになったこともありました。意気消沈して負のオーラが出ていたんでしょう。会ったことのないタイプの人が僕を悩ませ、オリンピックに出れると思って近づいてきた人は、みんないなくなりました。
笹原友希はこんなもんじゃない。笹原友希はこんなもんじゃないだろ。このまま終われないだろ。という、他人に対してなのか、自分に対してなのか、恐らく両者に対して抱く痛烈な感情が、反骨精神を呼び覚ましていきました。
約束=覚悟
学歴・経験・スキル・お金・持って生まれた容姿や体格……あるに越したことはないでしょう。
しかしながら、心が伴わなければ、何かを突き詰めて到達することはできないと思います。強力なサポーターを得てタッグを組むことも。
もちろんアドバンスクリエイトとの出会いは覚悟を持ってやっていた時のものですから、最高の出会いだったと今でも思っています。でも、その後の僕は与えられた環境や出始めた結果に甘えてしまいました。
オリンピックを逃し、変なプライドはズタズタに切り裂かれ、自分が恵まれていたことに気づき、容赦ない罵声を浴び、ついに芽生えた覚悟。ちょっとやそっとでなくなるものでは到底ありません。
必ずオリンピックに出場するという自分との約束には、お世話になった多くの人のことも入っていて、オリンピックに出たらモテるだろうという自分の気持ちだけのものではなくなっていました。
オリンピック種目をやっている選手たちは、大なり小なりオリンピックを夢見て目指していることと思います。
でも、中途半端で中身の伴わないチャレンジなら、やらないほうがいい。時間やお金や社会性、いろんなものを失うだけ。やるからには、それ以外のものは捨てる覚悟でやらなければいけないと思います。逆にその覚悟があれば、きっと専念していることがいろんなことに通じるものを教えてくれる。
僕の場合、そのことに気づかせてくれたのは、オリンピック代表落選という高校時代を超える挫折体験と、恩人の言葉でした。
ソチオリンピック出場に向けて、新たな一歩を踏み始めました。
PROFILE
笹原 友希(ササハラ ユウキ)
スケルトン競技元ソチオリンピック日本代表
1984年秋田県生まれ。仙台大学時代からスケルトンを始める。卒業後、株式会社アドバンスクリエイトに就職(2010年まで在籍)。北海道・長野・秋田で社会人として競技を続けながら五輪を目指し、2014年に念願のソチ五輪に出場。2017年に現役を引退し、現在は茅ケ崎のスポーツクラブの広報業務に従事。
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